***スイッチ***


 あと少し。ほんの3メートルほどで目的の場所に着こう、としたその瞬間、
「桜川!」
 という、自分を呼ぶ声にヒトミは足を止めた。
 振り向くと、そこには同じクラスの華原雅紀がいた。
「華原君?どうしたの?」
 はやる気持ちを抑え、華原に笑顔を向ける。
「あのさ、今日放課後時間あるかな?」
「え・・・」
「期末前で部活ないだろ?ちょっと買い物付き合って欲しいんだけど」
 にっこりとさわやかに微笑まれ、非常に断りづらい雰囲気だった。
 ヒトミは、ちらりと壁に目を向けた。
 壁の向こうーーー保健室で、ヒトミを待っているであろう人物の姿を頭に思い浮かべ・・・。
「えっとあの・・・」
「だめ?」
 眉を寄せ、少しさびしそうな表情。
 ――――うっ・・・こ、断りづらい・・・
 もともと、人に頼まれるといやとはいえない性格だ。
 買い物付き合って、早めに帰れば・・・
 なんてことを考えて口を開こうとした瞬間、後ろで扉の開く音がした。
「よお」
 ヒトミの胸が、大きく高鳴る。
 華原が、ちょっと目を見開く。
「若月先生」
「お前ら、今帰りか?」
 ゆっくり、近づいてくる気配。
 そしてぴたりとヒトミの後ろで止まる。
「はあ、まあ・・・」
 華原が答える。
「桜川」
 ヒトミの頭上で、龍太郎の声が響いた。
「は、はい?」
 名前を呼ばれ、そろそろと振り向く・・・と、にこやかに微笑む龍太郎と、目があった。
 にこやかに・・・でも見覚えのあるその笑顔に、ヒトミの背中を冷たいものが伝った。
「ちょっと頼みたいことがある。いいか?」
 と言って、あごで保健室を指す。
「あ・・・」
 華原が何か言おうと口を開く。と、龍太郎が華原にちらりと視線を投げ、
「悪いな、急ぎなんでちょっと借りるぜ」
 と言うと瞳の腕を取り、保健室の中へと引っ張って行ってしまった・・・・。


 保健室の扉を閉めると、龍太郎は無言でその場に立っていた。
 ヒトミが、不思議そうに顔を上げる。
「先生・・・?」
「しっ、少し黙ってろ」
 そう小声で言われ、その通りに黙り込むヒトミ。
 しばらくすると・・・廊下から、足音が聞こえた。
 おそらく華原の足音だろう。それは、ゆっくりと保健室の傍から遠ざかって行った・・・。


 足音が聞こえなくなると、龍太郎はゆっくりと息を吐いた。
「先生・・・?」
 ヒトミが、不思議そうに首を傾げる。と、龍太郎がヒトミに背を向けたまま、一言
「アホ」
 と、言い放った。
「は・・・?ア、アホって・・・ひど・・・!」
「アホだからアホッつったんだよ」
 くるりと振り返った龍太郎の顔は、明らかに不機嫌だった。
 その表情に、思わず言葉を飲み込むヒトミ。
 ―――わ、わたし、何かした・・・?
 わけがわからず戸惑うヒトミを見て、龍太郎は大きなため息をついた。
「お前、あいつの誘いにのろうとしたろ」
「あ・・・き、聞こえてた・・・」
「に決まってるだろ?」
「だって、なんか断りづらくって・・・」
「ほーお、で、俺様との約束はドタキャンってわけだ」
「そ、そんなこと!華原君の買い物に付き合ったらすぐに戻ろうと・・・」
「アホ」
 最後まで言い終えぬうちに一刀両断され、ヒトミは口をパクパクさせた。

 ―――ったく・・・なんでこいつはこう鈍いんだ・・・。
 龍太郎は更に深いため息をついた。

 ヒトミはかわいい。
 以前の100kgあったころから比べたら誰もが振り返るほどの美少女になった。
 だが、そんな見かけだけに惹かれるようなその辺の男子生徒なんかどうでも良かった。
 華原は・・・いや、華原だけではないが、あのマンションにいる男どもはみんな、ヒトミの内面の魅力を分かった上で、ヒトミになんとか近づこうとその隙を狙っているのだ。
 それをヒトミは、全くわかっていない。
 その連中を信頼し、その無邪気な笑顔を振りまく。
 そのたびに龍太郎の眉がピクリとつり上がるのにも気付かずに・・・。

 
 「えと・・・先生・・・?」
 急に黙り込んでしまった龍太郎の顔を、ヒトミが不安げに覗き込む。
 と―――――
「きゃっ??」
 突然すごい力で腕を引っ張られ、バランスを崩したヒトミは、そのままぽすんと龍太郎の胸の中に倒れこんでしまった。
「あ、あの・・・?」
 その近すぎる距離にどきどきしながら、なんとか言葉を紡ぎ出そうとするが、龍太郎の意外と繊細な手が伸びてきたかと思うとくいっと顎を上向かされ、あっという間に唇を奪われてしまった。
「!・・・・・んっ・・・・・」
 突然の乱暴なキスに息も出来ず、縋る様に龍太郎の白衣の裾を握る。
 ヒトミの苦しそうな表情に、漸くその唇を開放したころには龍太郎を見上げる瞳は潤んでいた。
「先生・・・」
「・・・・・あんまり、あせらせるな」
「え・・・?」
 普段あまり見ることのない、龍太郎の切なげな表情に、ヒトミの鼓動は早まる。
「自覚がないにも、ほどがあるっつーの・・・」
「自覚・・・?」
 まだ状況が理解できないヒトミは、きょとんと首を傾げる。
 そのあどけない、しかしまだ潤んだままの瞳が妙に色っぽい表情に天井を仰ぎ、そのまま再びヒトミを抱き寄せた。
「せんせ・・・」
「はなさねえから」
「!!」
「絶対・・・離れるなよ?俺から・・・」
 低く、甘い囁きに、ヒトミはその腕を龍太郎の背中に回し、ぎゅうっと抱きついた。
「離れませんよ」
「・・・・・その言葉、きっちり聞いたからな・・・・あとで訂正しても、きかねえぞ・・・?」
 疑り深い龍太郎の言葉に、ヒトミはくすくす笑う。
「もう、疑り深いなあ・・・。わたし、嘘なんかつきませんよ」
「よし、じゃあ・・・」
「?」
 急に口調の変わった龍太郎を不思議に思い、そっと顔を上げその表情を盗み見ようとすると・・・
「っきゃあ!?」
 突然抱きかかえられ、思わず龍太郎にしがみつく。
「せせせ、先生???」
「なにどもってんだよ?」
 見上げたその顔は、いつもの不敵な笑みを浮かべた表情。
 その足は、迷うことなくベッドのほうへ向けられていて・・・
「せ、先生、下ろしてください!」
「ああ?そりゃあ無理な相談だなあ」
「なななんで!?」
「そりゃあ、お前がスイッチを押しちまったからだろなあ」
「スイッチって、なんの?」
 ベッドまでたどり着くと、龍太郎はそこへヒトミを横たえ、逃げられないようにするかのようにその上に覆いかぶさった。
「俺様が、お前を味わうためのスイッチ、だよ」
 にっこりと悪魔のような、それでいてヒトミを捕らえて離さない妖しい笑みを浮かべ、ヒトミが何か言うよりも早くその唇を塞いだ。
 少し乱暴だけれど優しい熱を持ったその口づけはだんだんと深いものになっていき、もう逃げられないと諦めたヒトミは、龍太郎の首にそっと手を回したのだった・・・。







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