キス未遂事件〜智明編〜



 「失礼しま〜す」
 明るい女生徒の声とともに、保健室のドアが開いた。
 智明が振り向くと、入り口に2年生の鈴木園子と毛利蘭が立っていた。
 蘭の姿を見た途端、智明の胸の鼓動が早くなる。
「やあ、どうしたんだい?」
「すいません。蘭、ちょっと熱があるみたいで・・・」
「熱?」
 言われてみれば、蘭の頬はほんのりピンク色に染まり瞳は潤み、唇は微かに開いて息苦しそうだった。
「大丈夫かい?とりあえずベッドの横になって・・・。今、体温計を出すから」
 蘭は素直にベッドに横になった。園子が心配そうに付き添う。
「大丈夫?全く無理しちゃって。学校なんて休んじゃえば良かったのに」
「だって・・・今日、お父さん仕事で群馬まで行かなきゃならないのよ。わたしの具合が悪いなんて知
ったら、行くのやめちゃうかもしれないじゃない」
 なんとも蘭らしい言葉に園子も只溜息をつくしかなかったようだ。

「―――38.0℃・・・。今日は帰った方が良いね」
 と智明が言うと園子も頷く。しかし蘭は首を振り、
「今日は・・・部活で大事なミーティングがあるんです。主将のわたしが出ないと・・・」
 と言った。
「それって、今日じゃなきゃいけないの?違う日に変えてもらうとか・・・」
「ダメだよ・・・。みんな忙しいし・・・。大丈夫。ちょっとここで休ませて貰えば・・・」
 智明と園子は顔を見合わせた。蘭はこう見えても意外と頑固なのだ。こうと決めたらてこでも動かな
い所がある。
「―――分かりました。それじゃあ放課後になったら声をかけるから、それまではちゃんと寝ていない
とだめだよ」
 と智明が言うと、蘭は嬉しそうに微笑んで、
「はい。ありがとうございます、先生・・・」
 と言った。その笑顔があまりにもきれいで、思わず緩みそうになる顔をかろうじて理性で抑える。

「―――じゃ、先生、お願いしますね、蘭のこと・・・」
 園子が保健室を出ようと入り口まで行って、そう言った。
「ええ、分かってます」
 と智明は笑顔で応える。
 園子は、ちょっと何か言いたそうに智明の顔をじっと見つめた。
「どうしたんだい?」
「―――いえ、別に・・・」
 と園子は言って、ドアを閉めようとしたが・・・
「先生」
「はい?」
「寝てる間に悪さしちゃ、ダメですよ?」
 と小声で言った。
 智明は何か心の中を見透かされたような気がして、焦って言い返した。
「な、何を言うんだい!ぼ、僕は・・・」
 と、園子はしてやったりという顔でくすくす笑い、
「冗談ですよ。信用してますからね、先生」
 と言って、今度こそ本当にドアを閉めて出て行ったのだった・・・。

 ―――なんだか、釘をさされたみたいだな・・・。
 智明は苦笑いし、自分の机に戻るとやりかけていた仕事に取り掛かった。
 しかし、同じ空間で蘭が寝ているのだと思うとどうも落ち着かない。衝立の向こうに何度も視線が向
きかけ、そのたびに首を振って、神経を仕事に集中させる。それを繰り返しているうちになんだか肩が
こって来てしまい、結局半分も終わっていない仕事を中断し、お茶を飲むことにした。
 ―――いけないなあ、こんなことじゃ・・・。高校生じゃないんだから、こんなことくらいで動揺し
てどうするんだ。
 と自分に言い聞かせるものの、どうにも気になって仕方がないのだ。
 ―――蘭さん、大丈夫かな。一応薬は飲ませたけれど・・・。少し様子を見てみるか。
 智明はそっと衝立の陰から蘭の寝顔を覗いてみた。
 まだ熱があるのだろう、赤い顔をして荒い呼吸を繰り返している蘭。そんな蘭の姿を見るのは胸が痛
んだ。そっと、そばまで行って額に手を当てる。
 ―――まだ熱いな・・・。こんな調子でミーティングなんかやって大丈夫なんだろうか。無理にでも
家に帰すべきだろうか・・・。 
 そんなことを思っていると、智明の手が気持ち良いのか、蘭がその手に擦り寄るように首を振った。
 
 ドキンッ

 智明の心臓が跳ね上がる。
 ―――寝ているとはいえ・・・無防備な人だな・・・。
 智明がそっと、蘭の頬を撫でると、蘭は気持ち良さそうに首を竦めた。その顔は、なんとなく微笑ん
でいるようにも見え・・・。
 ―――きれいだな、本当に・・・。
 智明は蘭の横にひざまづくと、その顔に見入った。
 ―――君は知らないだろう。この学校で臨時の校医をやらないかという話が来た時、どんなに僕が嬉
しかったか。これで、学校では毎日君を見ることができる。そう思って、どんなに嬉しかったか・・・
。しかし現実は甘くないんだな。同じ校内にいても早々会うことはないし、会えたとしても・・・君の
隣にはいつもあの名探偵、工藤新一がいるのだから。
 しばらく大きな事件に巻き込まれ学校を休んでいた新一は、戻って来てからも相変わらず警察に呼び
出されたりすることが多く、あまり学校には来ていないが、学校にいる間は恋人である蘭のそばから片
時も離れようとしないのだ。特に智明が校医として学校に来てからは、極力蘭を保健室に近付けないよ
うにしているらしい・・・。当の蘭はそんな新一の思惑には全く気付かず、智明に対しても以前と変わ
らない態度で接してくる。そんな蘭の様子を見てやきもちを焼いている新一の姿を見るのも、結構面白
いと思っていたのだが・・・。
 ―――今日は、工藤君は事件でまたいない。そんなことが嬉しいと思えるなんて、僕も情けないな。
 智明は苦笑いして蘭の顔を見つめた。
 ―――こんな場面を見たら、きっと工藤君は怒るんだろうな。自分以外の人間が、彼女に触れるのを
すごく嫌がる人だから・・・。
 そう思うと、なんとなく楽しい気分になってきた。彼の知らない2人の時間―――。今だけは、蘭は
自分のすぐそばにいる。こうして触れることもできる。そうだ、その気になれば、キスだって―――
 ついそんなことを考え、智明ははっとする。
 ―――何を考えてるんだ!
 慌てて手を引っ込め、首を振る。
 すると蘭が、微かにうめき声を上げ、苦しそうに身を捩った。
「蘭さん?」
 ハッとして声をかけるが、蘭はすぐにまた静かな寝息を立て始めた。
 智明はホッと息をついた。
 ―――まるで10代の男の子のようだな。こんなふうに彼女の表情一つ一つに動揺してしまうなんて・
・・。
 智明はもう一度蘭の頬に触れてみた。
 すべすべして、柔らかい肌の感触。ずっと、離したくなくなる・・・。10代の男の子なら、迷わず彼
女にキスしているんじゃないだろうか?こんなきれいな寝顔を見て、平気でいられる男などいるものか
・・・。そう、きっと工藤君なら迷わずキスしているだろう。彼はそれが許された人間・・・。
 智明の心の中の悪魔が囁いた。
 ―――寝ている間にしてしまえばいい―――。今なら誰も見ていない。彼女にも、彼にも知られるこ
とはない―――。

 そっとその唇に、自分の唇を近付ける・・・。
 後少し・・・数センチで彼女の唇に触れる、というところで―――

「蘭!!」
 保健室のドアが勢い良く開き、聞き覚えのある男の声が―――
 智明は蘭からパッと離れ、その場に立ち上がった。
「工藤くんかい?―――彼女なら寝ているよ」
 そう言いながら衝立から姿をあらわし、新一の前に出た。
 新一はちょっと智明に探るような視線を投げてから、軽く会釈をし蘭の寝ているベッドのそばへ行った。
「―――蘭・・・」
 他の人間には向けることのないやさしい眼差しで蘭を見つめる新一。それを横目で見ながら、智明は
新一に気付かれないよう、そっと息を吐き出した。
 ―――何をしているんだか・・・。もう少しで、彼女の唇に触れてしまう所だった・・・。もし触れ
てしまったら、もう離せなくなっていたかもしれない・・・彼女のすべてを求めて、彼女を傷つけてい
たかもしれない・・・。だから、きっとこれでよかったんだ。彼が現れて・・・

「新一・・・?」
 蘭が、微かに目を開き、新一の姿を見つけた。
「蘭、大丈夫か?―――送っていくから帰ろう」
 新一がやさしく言ったが、蘭はゆっくりと首を振り、
「ダメ、だよ・・・。今日のミーティング、わたしが出なきゃ・・・」
 と言った。だが、その言葉を遮るように
「バーロ、そんな状態で何がミーティングだよ。空手部の奴らには俺から言っとく。だから今日は帰っ
て休め。無理すると長引いちまうぞ」
 と、新一が有無を言わせぬ口調でそう言うと、蘭はなおもまだ迷っている様子だったが、やがてこく
んと頷き、
「―――分かった・・・。ごめんね、新一、せっかく学校に来たのに・・・」
「オメエはそんなこと気にすんな。―――さ、行くぞ」
 そういうと新一は、蘭の身体を抱き起こし、支えながら立たせて靴をはかせた。
「―――歩けるか?」
「うん、大丈夫。―――先生」
 蘭が、急に智明を見て言った。2人のことをボーっと見ていた智明は、その声にはっと我に帰り、
「あ、はい」
 と返事をした。蘭は弱々しい微笑を浮かべ、
「ありがとうございました。すいません、我侭聞いてもらったのに・・・」
 とすまなそうに言う。それを横で聞いている新一は、冷静な顔はしているものの、どこか面白くなさ
そうにも見え・・・。ふと、智明は意地悪をしてやりたくなった。
「いえ、構いませんよ。調子が悪いときはいつでもここのベッドを使ってください。僕も1人でいると
退屈ですし。たまには話し相手をしに来てくださいよ」
 と言ってニッコリ笑うと、新一の顔がぴくっと引き攣るのがわかった。蘭は、そんな新一の様子には
気付かず、
「はい。じゃあ今度こっそりお菓子でも差し入れしますね」
 と言って笑った。もちろん、蘭としては深い意味もなく言った軽い冗談なのだろうが・・・。それを
聞いた新一の顔が一気に険しくなったのを、智明は見逃さなかった。
「―――行くぞっ、蘭」
 蘭の肩を抱き、半ば強引に保健室の外へ連れて行ってしまった。
「待ってよ、新一ィ。先生すいません、失礼します・・・」
 連れて行かれながらも律儀に挨拶を忘れない蘭・・・。
 やがて2人の足音が遠ざかり、智明は溜息をつくと机に戻り、椅子に座って、もうぬるくなったお茶を
飲んだ・・・。苦い緑茶の味が口の中に広がる。智明の口に、自然と笑みが浮かんだ。

 ―――敵いませんね、彼女には。・・・きっと、あの工藤新一にあんな顔をさせられるのも彼女だけ
なのだろう・・・。おそらく、彼女はそれには気付いていないのだろうが・・・。全く、罪な人だな・
・・。しばらく、あの柔らかな頬の感触と、艶やかな唇を忘れることは出来そうにない―――。
 そうだな。もしまた今度、こんなことがあったら・・・そのときは、本当に奪ってしまおうか。その
唇も、彼女の心も・・・。もちろん、あの探偵がそうやすやすと諦める筈もないが・・・あんなふうに
焦った表情を見るだけでも楽しませてくれそうだ・・・。

 智明は1人、その時を想像しながら顔をほころばせるのだった・・・。





                                            fin
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 初の智→蘭です!一度書いてみたいと思ってたんですよねえ。新出先生は動かすの本当に難しい!
でも楽しかったです。「キス未遂事件」のシリ-ズでは、普通だったら蘭とキスできなさそうな人との
話にしようと思ってるのですが・・・。次は誰にしましょうか?やっぱ西の名探偵あたりかな。
もし「ぜひこの人と!」なんて希望がありましたらBBSのほうへカキコしてみてくださいね!
それでは♪